頭痛でもなければ、脳の存在を意識することってほとんどない。
頭脳系労働者で精神的ストレスにどっぷり漬かっているノートン扮するサラリーマンは、極度の不眠症に悩まされ、覚醒していても現実感があいまいな日々を送っていた。医者が睡眠導入剤を処方してくれないから、睾丸癌患者のグループセラピーなどを渡り歩き、身体の部分的欠落や生命の終焉を迎えようとする人間に接することで「生きている実感」を得ている。頭痛の自覚の応用みたいなものである。

リアリティというのは、<バーチャルな情報>ではなく<フィジカルな身体的刺激>で実感するものだよね。
睾丸癌でタマなしになったことで乳房が女性化した巨漢の男。セラピーでそのふくよかな胸に顔をうずめ、思い切り抱きしめ合っているうちに涙してしまう経験。背にまわる腕にかかる力、窒息しそうな肉の壁、汗ばむ皮膚の接触感、泣くという開放感。それはディスプレイに表示される数字よりも、自分も肉体を持った人間であることを実感するリアリティなんだ。

そして、タイラーと出会い、殴り殴られることで、身体に受ける衝撃でアドレナリンがぴゅーぴゅー放出され、精神の覚醒を体験することになる。
殴り合うだけで、自らの肉体と精神に1本太い軸が通ったような気分になり、態度や言動が堂々としてくる。男って単純、って思えるけど、痩せるだけで自信が倍増する女性も同じような精神構造なんじゃないのかな。
問題は、「男らしさ」ってイコール「ワイルド」ってことなのか?ということなんだけど、今の「男」が退化させてしまった「ワイルド」が男から見た男らしさの象徴なんだから、ストーリーとして成立するには仕方ないか。

ただ、「ファイトクラブ」が単なる暴力映画じゃないってのは、ノートン扮するサラリーマンが、タイラーに対して男として惚れているという点だ。
男女の関係を男同士にシフトさせた<やおい>な関係ではなく、自分がこうなりたいと望んでいる男(タイラー)の、いつもそばにいることが許されている自分がうれしいんだよね。
でも、対等な立場でお互いが惹かれ合っていると思いたいノートン扮するサラリーマンに対して、タイラーはそう感じている訳でもないようだ。

そんな彼の「僕はジョーの怒り狂った火を噴く疎外感です」という、自分の感情を他人の<脳>の独り言にしているのが、感情表現としてスマートなスタイルだった。自分が主語じゃないことで、直球で濃縮された感情表現が数秒で表現できたんだね。

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