「ブレードランナー」にしても「攻殻機動隊」にしても、ベタ惚れするSF映画には共通点があります。「この世界に着いてこれるかな?」という毅然とした態度が映画に備わっていること。仮想世界にリアリティを与える技量と、ストーリーを語りきる自分たちの方法論への自信が、その気のある観客を強引に引きずり込むパワーとなり、やがて伝説と化すんですね。

SFというより、現代の「神話」の創造に付き合っていく喜びを感じる「スター・ウォーズ エピソード1」とこの「マトリックス」は、デジタル処理によるイメージの拡張を、まったく別のベクトルで実現させていたのが面白いです。
どちらも、壮大な世界を特定の個人の視点に寄って描き、「運命」をどう捉えるかが主人公に課せられるのですが、「スター・ウォーズ」は西洋的な歴史観の中に個人を置き、「マトリックス」は存在のあいまいさの中に個人を置いています。だから「スターウォーズ」は壮大な映像世界を描き、「マトリックス」は自分の内的世界にある感覚的な映像世界を描いているんですね。目にしたものだけが実在するという量子力学的な発想が「マトリックス」のイメージを斬新にしています。
思えば「スター・ウォーズ EP4」が公開された年も、同じ土俵ながらベクトルが全く違う「未知との遭遇」が公開されたっけ。どちらもドラッグ文化から生まれた意識の拡張が生み出した映画だ、なんて言われていましたが、アップ系とトリップ系がバランスよく同時期に制作されるアメリカ文化のたくましさを感じさせます。

映像の斬新さばかりが取り上げられている「マトリックス」ですが >>