タルコフスキーな風景  alone chair : large-size
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アンドレイ・タルコフスキーの映画は、「聖なる無意識」を体験する旅のようです。
ストーリーを語るために細かくカットを積み重ねる映画ではなく、長回しによって1つ1つの場の時間を共有してしまうタイプの映画。映像に込められた意味と暗喩は、夜明けにみた夢の意味を解き明かすようでもあります。
タルコフスキーの映画に象徴的に登場する「水」。ユングが唱えた母なる意識体として、この「水」を語る人もいます。

偶然目にした光景を、人工的に再現させることで映像は生まれますが、映像に偶然が歩み寄ってくる奇跡も存在します。これはよく「映画の神様がついている」という表現で語られます。
故黒沢明監督の作品に、俳優の激した心理状態とシンクロして背景の木々が風で揺れるシーンがあるのですが、遙か彼方にみえる木々まで揺れ動いているのです。台風が近づいていたという裏話はあるにしろ、自然の力まで演出しているかのような映像を撮れるところが、「黒沢には映画の神様がついている」と言われる所以でしょう。

タルコフスキーの映画でも、映像の奇跡がたびたび現われます。タルコフスキーは、心の深淵を描くための道具以上の意味を持って、光と影と水の奇跡的な美しさをみせてくれます。

そんな奇跡を期待する訳でもなく、雨上がりの夕方、家の裏手にある公園にカメラを持って出かけました。いつもなら犬の散歩でにぎやかなこの公園も、こんな日は通り道が水たまりで塞がってしまい、人気がまったくありません。
単に素材として「葉」を撮影しに来たのですが、水たまりに覆われた下草を目にしたとき、「タルコフスキーの風景だ」と感じました。僕はこの光景をカメラに納めようと、まばらに立つ木々を避けてアングルを探しましたが、対照物がなければ水面の質感が生かされないジレンマに襲われていました。
「朽ちた椅子があればいいのに…。主人が座るのを何年も待っているかのような椅子が」
そう思った瞬間、乗ってきた自転車が背後で大きな音を立てて倒れました。驚いて視線を自転車に向けると、倒れた自転車越しに木の塊が積まれているのが目に入りました。「椅子でなくても、立体物を木片で作ればイメージが出来上がる!」はやる気持ちでその木の塊に近づいた時、僕は思わず手を合わせて天を仰ぎました。そこには、置き去りにされて朽ちた木の椅子が2脚転がっていたのです。
イメージに近い方の椅子を担いできて、水たまりにそっと降ろしました。夕暮れ時の光の変化は急ぎ足で、ストロボを使わずにデジカメで撮影ができるかどうかという明るさです。焦ってカメラをスタンバイさせました。そして、フレームに切り取られた風景を見たとき、またもや天に感謝するポーズをとりたくなりました。
そこには、タルコフスキーの「ノスタルジア」の1カットのような映像があったのです。暮れかかる陽の光を天空で受けた雲が、水面に反射して十分な明るさを作り出していたばかりでなく、椅子の周辺に美しいグラデーションを生んでいたのです。

そしてこの写真は、映画の神様からのお裾分けのような作品になりました。

アンドレイ・タルコフスキー フィルモグラフィ
僕の村は戦場だった('62) アンドレイ・ルブリョフ('67) 惑星ソラリス('72) 鏡('75) ストーカー('79) ノスタルジア('83) サクリファイス('86)
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