映像派の映画監督としてより、マーケティングによる作品企画の方が目立っていた森田芳光監督。正式タイトルの「刑法第三十九条」を「39」として売るマーケッター的視点と、三十九条という着眼点が、実に森田監督らしいです。
刑法第三十九条:
心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス 心神耗弱者ノ行為ハ其刑ヲ減軽ス
海の向こうではなく、この日本で起きた2つの事件--宮崎勤の連続幼女殺人事件、神戸の酒鬼薔薇事件--によって、フィクションというオブラートに亀裂の入った時代に生きていることを実感したのは、僕だけではないはずです。
酒鬼薔薇事件の時は、TVのワイドショーで飛び交う憶測劇を、タイマー録画しておいてもらって、深夜帰宅してから観ていました。「自分は絶対に違いますが…」というカッコ入りの前置きで語られるコメントが、どこか深刻さに欠けて、睡眠前に気分をリラックスさせるのにピッタリなトークショーのようでした。
毎日終電まで働いて、眠るためと朝起きるために精神系のクスリを飲んで、犯罪心理や快楽殺人や多重人格の本が本棚に並んでいて、メールのチェックをしながら、張りつめたバージョンの自分を解放するために異常殺人ネタの番組を流し観している自分。時々、ブラウン管の向こうから「お前も病んでいるぞ」と言われているような気がしました。でもこれが僕にとっての現実、リアル・ライフです。
社会通念としての一般的な現実が、犯罪や事故、病気などによって個人の中で突然変異してしまうことがあります。社会通念に背いた者を裁くために作られた法は、個人の中で突然変異を起こした現実を裁くことはできても、真実を理解することまでは到達できないかもしれません。それは、あくまで個人の中だけに存在する現実なのだから。
森田監督の「39」では、被告の精神鑑定を通して、被告にとっての現実に迫っていきます。しかも精神鑑定する側も心に問題を抱えている設定によって分母を揃え、刑法第三十九条に帰結する真実に近づいていこうとします。
分母を揃えるのは人物設定だけではなく、映像に対しても行われています。色の鮮やかさを排除する「銀残し」と言われる手法は、過去に市川昆監督の作品や「戦場のメリークリスマス」などで独特な空気感を作り出していましたが、この「39」ほどキツイ銀残しは初めて観たような気がします。とにかく陰鬱でした。
人の話を聞いているうちに意識がぼぉっとしてきて、相手の目を見ずに全然関係ないところを凝視しているというような、意識にシンクロして神経を逆撫でするような映像が次から次へと展開していきます。犯行現場の検証シーンでセリフがぶつ切れになっていたり、対面する2人のカットの切り返しでフォーカスが不安定に変わっていったり、構図が<正しい>バランスでなかったり…。あざといと感じる人もいるでしょうが、僕は、すごいストーリーの把握力だな、と感じました。
また、テレビを画面に登場させなかったことで、徹底して個人対個人の世界に絞り込んだ点もよかったと思います。
この映画では、TVやCMで見慣れた俳優が、いつもと全く違う印象の芝居をしています。精神鑑定人の鈴木京香ねえさんの陰鬱さかげんも新鮮でしたし、被告の堤真一の多重人格の芝居もすごく良かった。今まであまり気にとめていなかったのですが、この映画でファンになってしまいました。
江守徹、杉浦直樹、樹木希林などは、まるで別人のような芝居です。森田監督は一体どんな演技指導をしたのでしょう?
ネタバレになるので、これ以上ストーリーには触れませんが、最後にひとつだけ。
もしあなたが多重人格ものの本を読んでいるような人だったなら、交錯する展開の中で、「いかにも」な要素に目が留まるでしょう。そして「?」と引っかかるところがあると思います。それらも含めて伏線になっているのが、この映画のよく出来ているところです。
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